「あの人が見積もらないと、出せません」
数量は誰でも拾えます。拾えないのは、この現場は何割見ておくか、という一言です。それを出せるのが一人しかいない会社の話をします。
※ この記事は、複数の事例を参考に構成したモデルケースです。特定の企業を指すものではありません。
夕方五時。図面を前にして、若手が手を止めています。
岩手県内の、社員十五名ほどの建設会社を思い浮かべてください。今週中に出さなければならない見積が、机の上に二件あります。
数量は拾えています。単価も入っています。それでも出せません。
この現場は何割見ておくか——その一言を出せるのが、専務ひとりだからです。
勘と呼ばれているものの正体
専務は図面を三十秒見て、「ここは前の◯◯と同じだな。二割乗せておけ」と言います。
傍から見ると勘です。本人も「勘だ」と言います。でも、実際に働いているのは記憶です。
昔やった似た現場で、何が狂ったか。搬入路が狭くて手間が倍かかった。地山が想定と違った。施主の追加要望が後から三回来た。その痛い記憶が、二割という数字になって出てきます。
勘とは、過去に痛かった場所の地図です。
地図なら、書けます。
引き継げないのは、答えの方を渡そうとするからです
「二割乗せろ」だけを教えても、次の現場では使えません。条件が違うからです。
渡すべきなのは答えではなく、どこで狂ったかです。搬入路で狂った、地盤で狂った、施主対応で狂った。この三つを知っている若手は、次の現場で自分の目でそこを見に行きます。
見に行けるようになれば、数字は自分で出せます。
時間はあまり残っていません
国土交通省が総務省「労働力調査」をもとに作成した資料(令和8年4月)によると、建設業で働く人のうち 55歳以上が36.6% を占めています。一方、29歳以下は11.9%です。
三人に一人が55歳以上。十年経てば、その多くが現場を離れます。
積算のさじ加減を持っている人は、たいていこの層にいます。その人が辞める日が、見積が出せなくなる日です。会社の売上は、その一日で止まります。
台帳を作る話ではありません
「そんな資料、作る時間はない」——作りません。
必要なのは、完成した現場について一行だけです。
「◯◯様邸 見積比+18% 理由:搬入路が狭く、手運びが三日増えた」
これだけです。書くのは現場が終わった日、一分で済みます。二十件たまると、この会社が何で狂いやすいかが見えてきます。三十件たまると、若手が読んで自分で判断し始めます。
まず、直近の三件だけ
過去全部を掘り返す必要はありません。
直近で終わった三件について、見積と実際がいちばんズレた項目を一つずつ挙げる。ズレた理由を、一行だけ書く。
三行です。専務に聞けば、たぶん三分で出てきます。出てこなければ、記録が残っていないということが分かります。それも収穫です。
見積が出せる人を、もう一人作る
目標は、専務の代わりを作ることではありません。専務と同じ地図を見られる人を、もう一人作ることです。
地図さえあれば、二人目は思ったより早く育ちます。
専務が現役のうちにしか、この地図は書けません。